しゅみの部屋

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ミュージカル『アンドレ・デジール最後の作品』観劇レビュー

ミュージカルアンドレ・デジール最後の作品』のレビューです。

ウエンツ瑛士さんのファンなので観たのですが、同時に脚本と歌詞が高橋亜子さん、演出が鈴木裕美さんということでも、観劇前からかなりワクワク。

原作なしの日本オリジナルミュージカルで、有名なBW版や原作漫画などのネームバリューがないのは、興行的になかなか厳しそうですが、しかしこれは海外にも輸出されてほしい、日本でも何度も再演してほしい作品でした。

その中で、いくつか気になるポイントを備忘録的に綴っておきたいと思います。

 

ブロマンスか否か?

主人公の2人、エミール(ウエンツ瑛士/上川一哉)とジャン(上山竜治小柳友)の、共鳴と唯一無二の絆は、友情という言葉では表し切れないほどのものとして描かれている。その間で交わされる言葉は、恋愛において語られる言葉にも近くて、しかし、この2人を明確に恋人と示すようなセリフやエピソードはない。

こういう恋愛と友情のあわいのような男性同士の関係性を描いた作品は昨今「ブロマンス」と呼ばれたりするけれど、ブロマンス作品はクィアベイティング*ではないかという批判も巻き起こっている。

(*クィア/性的マイノリティのコミュニティへ貢献する表現ではなく、注目を集めるためだけにクィア的な表象を曖昧にほのめかすこと)

ただこの『アンドレ・デジール最後の作品』においては、むしろ、アナ雪の「エルサにガールフレンドを」or「アロマンティック/アセクシャルのプリンセスに」の論争に似たジレンマがある。

共鳴し合うことでともに一つの絵を作り出す2人の、「人生でこんなに心から求めるヤツはいない」と歌うほどの互いへの強い想い。しかし、他にはない究極に特別な関係であるからこそ、それが必ずしも「恋愛」である必要があるのか?という疑問に突き当たる。

人生で最も特別で大切な人は、恋人でなければならないのだろうか?

この2人を明確に恋人として描いてしまうと、究極の特別な関係=恋愛である、というメッセージになってしまうのだ。

しかし、2人は互いに、他の恋人やパートナーができるといった描写は一切ない。離れてからのその後の人生が語られるとき、よくあるセオリー通りなら「結婚した」か「生涯孤独だった」かどちらかの言葉で示されるが、どちらの言葉もない。そんなことはわざわざ言うようなことでもない、という風に。

その上で…観劇後しばらくしてふと、私の頭に「一緒に贋作制作をしていた数年間、2人が恋人だったとしても何もおかしくない」という考えが浮かんだ。

恋人だったとしてもこの脚本は何一つ矛盾しないし、しかし、恋人でなくてもいい。2人の関係はどちらにしろ特別なのだから。

ただ、明確に恋愛関係としてしまうと、世間が「恋愛」に抱く様々な先入観が付随してくる。身体的接触とか、性的欲求とか、嫉妬とか。それら自体「恋愛」への偏見かもしれないが、こういう要素が「一つのものを創り出すことで結びついた2人」という部分をぼやけさせるのは確かだ。

演出の鈴木裕美氏は、Twitterでこんなことを語っていた。

たしかに、他の役はともかく主役のエミールとデジールは、ジェンダーがどのように違っても、ほぼ脚本を変えることなく成り立つ。

この話を聞いてからずっと私は夢想しているのだけれど、いつか再演が叶ったら、男性ペア、女性ペア、男女ペアのトリプルキャストで演じてもらいたい。

おそらく男女ペアが最も恋愛関係として読み解かれやすいだろうけれど、唯一無二の特別な関係を明確に恋愛として描かない意義も、最も示されると思う。

 

ジャンのエミールへの愛

ウエンツエミール×上山ジャンの東京千秋楽では、ジャンは、エミールが壊れそうな精神の持ち主だとずっとちゃんとわかった上で、彼をとても大切にしているように見えた。
利用しようとする人たちに絡め取られて流されてしまう時でさえも、ジャンはむしろ、エミールを守って汚れ役を一身に引き受けているようだった。

ジャンのエミールへの愛情は本物だったと誰もが信じると思うけれど、同時にジャンはエミールの絵の一番のファンでもあったと思う。そりゃ推し画家の今までで一番すごい作品が目の前にあったら興奮するよね…。

でも、エミールは最初から「デジールの最後の絵を描いたら絶望から戻ってこられなくなるかもしれない」と言っていた。そしてジャンは「自分が舟を出して迎えに行く」と約束していた。これが2人の大切な約束で、その約束をしてくれたジャンだからこそエミールは特別に思っていたし、裏切られたと思ってしまった気持ちもわかる。

しかしそれは、エミールがひたすら「舟を待つ側」に自分を置いていたせいでもある。デジールとマルセリーナのように、互いに互いの舟となり助け合う気持ちを持つことが、エミールはジャンに対してできなかった。

しかも、「絵を描いているだけで本当に死にそうになってしまう」なんていう、エミールの常人には理解し難いところは、いくらジャンでもすぐに気づくのは難しかっただろう…。後からでも気づいただけでわりとすごいと思う。

しかしエミール自身に「ジャンの救いの舟になろう」という思いがなかったとしても、実はジャンにとってエミールの存在は、すでに救いだったんじゃないだろうか。
ジャンの背景は詳しくは描かれないけれど、おそらくエミールの父のような家族も、誰もいない孤独な人生だったのではないかと思わせる。

初めて芸術への情熱を同じ強さと深さで分かち合え、自分を必要としてくれるエミールとの出会いが、ジャンにとって救いの舟が現れた瞬間だったのかもしれない。

 

エミールの母

エミールの記憶の母が最初に登場するシーンで、「母さん」というエミールのセリフを聞いた瞬間、私は「えっ、親から子にこの言葉はちょっと気持ち悪い」と思った。

「私たち」がこの親子2人のことでなく、「私たち人間って」みたいな意味合いなのは後からわかったけど、それにしても対等に影響を与え合う関係性の枠に親が子を入れて話すのは、ちょっと違和感がある。
ジールとマルセリーナのような、互いを助けたいと思い、互いに助けられたと思える関係は、対等な者同士だから成り立つ。子どもが親の救いの舟になることはできない。

けれどエミールは、母の救いの舟になれなかったことに苦しみ続ける。精神的なヤングケアラーだったのかはわからないけれど、抱えたトラウマはそれに近いかもしれない。

エミールの母も、もともと精神的にかなり危うい人だったんじゃないだろうか。

人との関係の中で、失敗やすれ違いや悲しみがあっても、多くの人は耐えたり乗り越えたりしてそれでも生きていく。けれど、彼女は生きることができなかった。

弱さは身勝手さでもあり、母と同じ身勝手さをエミールにも感じる。しかし両者の決定的な違いは、それでもエミールは生きたという点にある。

生きて絵を描き、きっとジャンはずっとエミールの絵を見ることができただろう。ジャンのその後の人生にも、エミールはその点で一つの幸せを与えていたかもしれない。

しかし、エミールが生き続けられたのって、ジャンから与えられた愛もあったけど、父親からの愛も土台にあったように思う。

エミールの父、不法なビジネスに手を出すような人ではあるけど、それで家庭にそんなに迷惑はかけてないっぽいし、エミールを愛していることはちゃんと伝わってくる。息子への愛に関しては、逃げたり投げ出したりしていないように見える。

そう考えるとエミールの母は、そういう親から子への愛のような、土台となる愛への安心感が得られなかった人なのかもしれない。
夫から愛されていても、他の愛を求めてしまうほどに。夫からの愛を失ったと感じた数日間のことだけで、絶望に落ちてしまうほどに。

絵を描かなくなったエミールがただジャンの支えだけを頼りに生きていく姿の、閉塞的で危うい様子は想像がつくし、そうなったらエミールも母のようになっていたかもしれない。

エミールが描かないと生きられないことがわかっていたから、ジャンはエミールに「描かなくていい」と言えなかった。

でもエミールは「俺より絵が大事なんだな」とかいう、「仕事と私どっちが大事なの」と「私の体目当てなのね」の複合みたいなこと言っててまじで話すれ違いまくってるんだよなここ…もう考えれば考えるほどエミールお前ー、ジャンの気持ちをなー!てなるんだけど、まあでも結局生きたからえらい。となるから「この命の素晴らしさを」なんだな…(そうかな…?)

 

みんなが思い浮かべた「デジールの絵」は?

これ、ツイッターの感想とか見ててもあんまり見かけないんだけど、架空の画家アンドレ・デジールの絵について、「この画家のこの絵みたいなイメージ」というのがある人、ぜひ教えてほしいなあ。

私は「水の旅人と呼ばれた画家」という最初の説明の時点で、水村喜一郎さんという画家を思い出した。

水村 喜一郎 |ARTIST・ギャラリー|口と足で描く芸術家出版

ジールの画風はもうちょっと印象派っぽい感じなのかなあ、と思うので、「デジールの絵」のイメージではないかもしれないけれど。

最初は水辺の絵を多く描いているからだと思ったのだけれど、2回目の観劇以降、「名もなき人々に寄り添う」という言葉からも想起したのかもしれない、と感じた。

というのも、実は私は水村喜一郎さんご本人に会ったことがある。

もう十数年前のことだけれど、信州上田にある戦没画家・画学生の絵を集めた美術館『無言館』で独自の成人式をやっていると聞き、友達と2人で参加した。その時ゲストとして水村さんが来ていて、同じテーブルで話すことができた。

20歳の若者だった私が40近く年上の男性に、説教臭さや威圧感を感じなかったのは、当時にしても今にしても、とても珍しい体験だといえる。

おしゃべりではないけれど、静かで穏やかというよりは、風来坊っぽい野性味ある雰囲気で、知識豊富で話していて楽しかったけれど、同年代の人と話すようにフラットに話しかけてくれた。不思議な印象の人だった。

私はアンドレ・デジールのイメージとして、「絵」よりも自分が出会った「人」を思い浮かべたのかもしれない。

 

9/29〜10/1に大阪公演があります。観られるチャンスのある方はぜひ!

www.andredesir.art